楽しむことと勝つこと
どっちが「せいかい」なのだろうか。
楽しむことを目指すのか
勝つことを目指すのか
結果、どちらも「せいかい」だ。そんなことは分かってる。
でも、これはどちらかがあれば、どちらかは失われる。基本的には矛盾している。
だからどちらかを選べと言われると「せいかい」は無い。
楽しむことを目指してれば自然と上達する?
上達するためには矯正されることも必要なのか?
怒ることは楽しさの妨げにはならないのか?
どっちかを目指そうとしすぎれば、どちらかは失われる。
例えば試合で勝ちたいから味方に要求する。言われた味方は嫌な思いをして楽しくない。これはどうすればいいんだろう。
コーチから「勝ちたくないのか?」と言われて、子供でも別に勝てなくても楽しければいいと思うこともあるだろう。それを大人が「もっと勝ちたい気持ちを持てー!」と怒ることは正解だろうか、間違いだろうか。
私にはこの事柄の「せいかい」が本当に分からない。
というか、1つの「せいかい」なんてないと思う。その時の状況や、言う人言われる人の関係性や、性別、年齢、組織の方針、本当に複雑なことの集積だ。
負けず嫌いがプロになる1つの要素であったりするのは間違いないだろうが、それだけを目指すことで本来的な楽しさを失うことも絶対にあるはずで、それは本末転倒だと思う。
よくあるのが、そのスポーツが好きだったのに体育会系の体質で嫌いになってそのまま競技をやめてしまった、とか。
だから、体育会系がダメだ、ということで済ませてもいけない。じゃあ、負けず嫌いかつ楽しむことを教えることは出来るのだろうか。その方法が本当に分からない。
効率的に覚えることが大事なのか、無駄なことも大事なのか、とか。色々とこの世には相反することが山ほどある。
結局、人同士の話し合いではどちらかの主張に傾斜することが多いが、社会ってそういう単純なことで構成されてなくて、この条件ではこっちとか、世の中的にはこうだけど自分が気持ちいいのはこっちとか、もっとこう複雑なもののはずなのだ。
それを許容してくれる社会だとか、認められる大人だとかがあることが、いい世界だとも思うのだがそうはいかないのだろう。
実務上社会では、結局どちらかに傾斜することになる。すなわち「勝つ」ことを目指すか。「楽しむ」を目指すか。100対0ではないにせよ、世の中70対30くらいが限度。
「勝つ」と「楽しむ」が50対50で存在することは構造上ありえない。それが出来るならばかなり高次元のことをやっている。それが理想の社会であるような気もしなくもない。
なので、それぞれの組織がスタンスを示していくしかない。それに個人は合わせるしかない、全部の組織がそう。そういうどちらかの答えを出さないと社会が成り立たない。
だったら私は「楽しむ70」「勝つ30」くらいで個人的には持っていたい。まあ、これは私がもう30代後半だという年齢的な面もあるけど。
でも、明日には勝つことが90くらいになってるかもしれない。そんなふらふらした考えの大人でありたい。でもそんな考えでは周りは困るだろうけど。この人は考え方がコロコロ変わって何を考えてるのか分からない。そんな人は怖い。まあ、それも確かに分かる。
基本的には1つの考え方を継続するのが「せいかい」とされる世の中。これも1つの考え方だけど。
でもまあ、勝つから楽しいってのもあるし、楽しいからずっとプレーして上達するから勝つっていう、相乗効果ってのももちろんあるから。それは認める。認めるってことが大事なんだと思う。
どっちが「せいかい」なのだろうか。
楽しむことを目指すのか
勝つことを目指すのか
結果、どちらも「せいかい」だ。そんなことは分かってる。
でも、これはどちらかがあれば、どちらかは失われる。基本的には矛盾している。
だからどちらかを選べと言われると「せいかい」は無い。
楽しむことを目指してれば自然と上達する?
上達するためには矯正されることも必要なのか?
怒ることは楽しさの妨げにはならないのか?
どっちかを目指そうとしすぎれば、どちらかは失われる。
例えば試合で勝ちたいから味方に要求する。言われた味方は嫌な思いをして楽しくない。これはどうすればいいんだろう。
コーチから「勝ちたくないのか?」と言われて、子供でも別に勝てなくても楽しければいいと思うこともあるだろう。それを大人が「もっと勝ちたい気持ちを持てー!」と怒ることは正解だろうか、間違いだろうか。
私にはこの事柄の「せいかい」が本当に分からない。
というか、1つの「せいかい」なんてないと思う。その時の状況や、言う人言われる人の関係性や、性別、年齢、組織の方針、本当に複雑なことの集積だ。
負けず嫌いがプロになる1つの要素であったりするのは間違いないだろうが、それだけを目指すことで本来的な楽しさを失うことも絶対にあるはずで、それは本末転倒だと思う。
よくあるのが、そのスポーツが好きだったのに体育会系の体質で嫌いになってそのまま競技をやめてしまった、とか。
だから、体育会系がダメだ、ということで済ませてもいけない。じゃあ、負けず嫌いかつ楽しむことを教えることは出来るのだろうか。その方法が本当に分からない。
効率的に覚えることが大事なのか、無駄なことも大事なのか、とか。色々とこの世には相反することが山ほどある。
結局、人同士の話し合いではどちらかの主張に傾斜することが多いが、社会ってそういう単純なことで構成されてなくて、この条件ではこっちとか、世の中的にはこうだけど自分が気持ちいいのはこっちとか、もっとこう複雑なもののはずなのだ。
それを許容してくれる社会だとか、認められる大人だとかがあることが、いい世界だとも思うのだがそうはいかないのだろう。
実務上社会では、結局どちらかに傾斜することになる。すなわち「勝つ」ことを目指すか。「楽しむ」を目指すか。100対0ではないにせよ、世の中70対30くらいが限度。
「勝つ」と「楽しむ」が50対50で存在することは構造上ありえない。それが出来るならばかなり高次元のことをやっている。それが理想の社会であるような気もしなくもない。
なので、それぞれの組織がスタンスを示していくしかない。それに個人は合わせるしかない、全部の組織がそう。そういうどちらかの答えを出さないと社会が成り立たない。
だったら私は「楽しむ70」「勝つ30」くらいで個人的には持っていたい。まあ、これは私がもう30代後半だという年齢的な面もあるけど。
でも、明日には勝つことが90くらいになってるかもしれない。そんなふらふらした考えの大人でありたい。でもそんな考えでは周りは困るだろうけど。この人は考え方がコロコロ変わって何を考えてるのか分からない。そんな人は怖い。まあ、それも確かに分かる。
基本的には1つの考え方を継続するのが「せいかい」とされる世の中。これも1つの考え方だけど。
でもまあ、勝つから楽しいってのもあるし、楽しいからずっとプレーして上達するから勝つっていう、相乗効果ってのももちろんあるから。それは認める。認めるってことが大事なんだと思う。