色々とブログでフットサルが上手くなる方法を考えたり書いたりしてるわけだが、そもそもフットサルとかサッカーっていうのは、手さえ使わなければそれ以外は基本的に何でもやっていい自由なスポーツである。

極端なことをいうと、味方のゴールに向かってもいいし何もしないでもいい。そう言ってしまうと元も子もない気はするが。

フットサルにはゴールを目指すという目的がある。それを達成するには戦術を使ったり協力した方が効率的だ。そんなことは当たり前なのだが、なんかそればっかりってどうだろう、とふと思う時がある。

みんなで協力してゴールを奪うという目的を達成するには、個人の自由は制限されるかもしれない。嫌いな人と協力しなければならないかもしれない。

なのでフットサルが上手くなるにはと色々と言っているが、それをやるもやらないも自由だし、自分の自由な意思による。だからどんな選択をしたとしてもが正解だと思う。

と、いうことを頭のどこかに持っておかないと、出来てない人に何で出来ないんだとか、ちゃんとやれよとか、そういう厳しい言葉を頭ごなしでなんの考えもなく言いかねないよね、ってことだ。そういうことが、フットサルでも普通の日常生活でも起きてしまわないか、ということ。

勿論、社会に馴染むという目的や、フットサルだとある程度ゴールを奪うという目的はあるので、そういう目的は持ってよい。というより持つ必要がある。

でも、それが100%ではないということは頭のどこかに持っておかないと、100%そうだとしたら他の事や他の人を単純に拒絶することに繋がると思う。

フットサルでいうと、上手くなったり勝ったりすることは目的もあって楽しいが、そればっかりが正解でもなく、ふざけたり遊んだり負けたりすることも正解だったりするかもよ、もっと根源的なとこまでいくと何もしないとか、味方のゴールに向かうとかの行為も別にフットサルではルール違反ではないからやっていいんだよ、ということを頭の隅に持っておけば、少しは「それもこれもありなんだな」という気持ちになって、他人を受け入れたり許せたりする事が増えるのではないか。という最近の孤立化・効率化の社会に対する危険性を感じることもあって、今日のこのようなブログの運びとなったわけです。

といって、明日からまた上手くなるにはといったことや、勝つためにはということを考えたり書いたりするのです。それもまた自由。